報道を見る限り 236
私たちは、いや、私は「報道を見る限り」なんて使わないが、この言葉は便利である。どこかの新聞、テレビなど、きちんと取材した内容、ニュースソースが信用出来る相手からを前提と出来るからである。ところが先般の某県知事選では「とあるアジデーター」やSNSでの真偽の疑わしい内容の方が信用された、「報道を見る限り」の報道は旧マスメディアとされて逆に不信の源とさえされた。人は信じたいものを見る見たい、ものである。いつのまにか、真偽の分からない情報が人々の欲望の充足となった。そしてそれはウイルスのように秒速で浸透していった。手探りの闇の中に確信のない"真実"を見たと感じた人がかってのコロナのように伝播し感染していった、一度その陶酔とも言える"正義感"に浸ると次は反対勢力をリンチさせるまで人はその"正義感"を高揚させた。残虐さがそうであればあるほど"正義感"は満足の度を増やして行く。
公正なる「正義」などない、あるのは"その人の正義"であるし、残虐性は必ずしも「正義」に反対されるとは限らない。正義を懐深くしまうべきではない、ただそうこうする間にも世界は悪意と中傷と殺戮に深く多く激しく侵食されていくのだ。
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