O嬢の物語

 1980年代終わり、釜山の海雲台(ヘウンデ)にはポチャマジャと言って屋台が並んでいた。まあ30軒は軒を連ねてたね。O嬢と僕はコンドミニアムを出て一軒の屋台の暖簾をくぐった。現在は衛生的な面から全て撤去されてる。

酒を飲み、オジンゴ(スルメ)やムノ(細足蛸の生き、ぶつ切り)を食べながら、不自由なハングルと日本語で話してた。女将がしんみりと「新宿に百人町て、あるか?」と日本語で聞いた。「あるよ」と私、ある様な気がした、事実あった。「どんなところだ、娘がいる」と女将。「まあ繁華街で飲み屋街だよ」と答えた。女将は「娘は何をしてるのか、心配や」と料理の腕を止め静かに寄せる波を見た。私はその場所がらある程度は想像がついたが。O嬢と女将は早口のハングルで少しの間話をしていた。私は内容は分からない。やがてO嬢は涙を流した。理由を聞いても言わない、もっとも詳しい話をハングルでされても分からないが、、。カラオケをやろうとなって、珍しくO嬢は哀調切ない韓国歌謡を歌い始めた。また涙を流した。翌日、ソウルに帰った。機中、昨夜の話をしたが、ケロッとしてもう忘れた風情である。引きずっていたのは僕だけ、女はその時その場の感激であとは忘れるのか、思い出さない、のか、いや無理にそうしてるのか分からない。最近もまたよくそう言う疑問を感じている。

"朝が来たのねさよならね"は女の属性かも知れないね。あるいは私の錯覚なのかなあ!いずれにしても分からないからイイんだろうね。知らない土地が分かってしまうとつまらないように。

"夕べあんなーに燃えたのに 明日は、、"

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