吉本は「最後の親鸞」の中で、知を極める事はその到達点から見下すことでは無い、そして"頂を極めそのまま寂(しず)かに<非知>に向かって着地すること"(本文ママ)と書いている。又又、我が意を得たりである。知たり顔で人に話すな、ということ。
宗教を頼みとするかどうかは人それぞれである、が、人はおそらくその一生を終えるに近づいた時、自己を知り世界を知る手掛かりを得るのだろう、と思う。何回もトライしたこの本が今はすらすらと頭に胸に入るのは、その境地に近づいたからだろうね。
青空の
下に城あり
病院あり
その下に
病人がおり
ナースが医師が
そしてあまたの
人がいる
そして
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