北魏から西魏、北周


 (北魏史 読了)

北魏がやがて北周となり、隋のある部分に引き継がれる。孝文帝、文明太后(馮太后)の均田制などが、隋唐に引き継がれ、やがて日本の律令時代の班田収授法となっていく、鮮卑拓跋族(北魏の主流)が漢族を官吏としてやとい、北方民族との融和も図られる。北魏に於ける皇太子の生母殺害の制度はやがて消滅するが、皇太子一族の権勢はその後も、やはり続き、清王朝乾隆帝の世継ぎの名前を扁額に隠しておくと言う奇策となる。北方民族は多くの部族の集合体であり、清王朝でも見られる様に絶えず世継ぎへの策略、謀略が渦を巻いていた。これは現代の中国共産党もその悪しき伝統を引き継いでいるのではないか?

日本との違い?それは国土の広さの違いと民族的多様さの違いだけである。秦漢から三国志時代をへて隋唐に至る途中の南北朝時代、北方民族の魏(北魏)がより多く中国正統史に影響を与えたことが後年の清王朝の誕生を生んだのかも知れないね。

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