最後の親鸞より

 和讃の項で「〈生きている〉と言うことのさ中では、その状態を永続的なものとかんがえて安心している」「死を忘れている事は、生の重要な条件だからだ。忘れなければ絶対的な姿で個を襲う〈死〉と言う暴力をこらえることができない」

こう言う言葉がストンと胸に落ちるのは、やはり死を意識しだしたからにちがいない、若い頃にはわかるはずがない、ね。

飢餓や天災による死屍累々を見て、現世の汚さをみた時宗(吉本の言葉だろう)の人々は念仏を上げて浄土に早く行こうとした、親鸞はその時がくればその時で良いと思っていた、そうだ私と全く同じだ。最近、よく思うようになったことは「宗教」は私には無縁であるが、他者との関係においてはそうもいかないな、と。

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