雨上がりの想い

 雨上がりの散歩道を歩いていた。今夜は友達と外食する、すると喜びと哀しみがやってくる。何故か?
一つは話す事や飲み食いが楽しい、しかし、終わると悦びに幕が降りて楽しみが哀しみに変わるから。旅行もしかり、映画もそう、全ては喜びと悲しみというか寂しさの綾織模様でこの世は成り立っている、これをゼロサムとかプラマイゼロとか人は、いや私は言う。
 そう!人の世は黒白、善悪、美醜、悪正、と両面の橋の上を歩いているようなもの、とか感じながら歩き続けた。drop waterのおかげで塵やゴミが空気中から消えていて、クリーンな空気が頭に清廉な思考を呼んでくれたのか、な、と。
愚者にとって〈愚〉はそのものであるが、知者にとって〈愚〉は、近づくのが不可能なほど遠くにある課題である。「最後の親鸞」より

コメント

人気の投稿